2009年10月15日

山口組 その1

六代目山口組は、兵庫県神戸市灘区篠原本町に本拠を置く日本の指定暴力団です。


暴力団対策法は、一定の要件を満たした悪性の強い暴力団を、都道府県公安委員会が、「指定暴力団」として指定する制度を設けています。

指定を受けた暴力団は各種の規制を受け、その構成員(指定暴力団員)が、暴力団対策法で禁止されている、
いわゆる「暴力的要求行為」(同法第9条)を行った場合には、中止命令が発せられます。

 現在、全国で22団体が「指定暴力団」となっています。

さて、山口組に戻ります。

初代山口組組長、山口春吉は、1912年頃、当時 神戸港で造船所の用心棒等を請け負い、勢力を持っていた大嶋組の大嶋秀吉の傘下に入りました。

1915年(大正4年)、約50人の沖仲仕(港湾労働者 = 船から陸へ、荷揚げ荷下ろしを行う労働者)を集めて、神戸市内で港湾荷役人夫供給業「山口組」の代紋をかかげたのが山口組の始まりといわれています。

初代 山口春吉は、人夫供給だけでなく、浪曲興行進出という先見の明もあり、山口組の基盤を確立しています。
1925年(大正14年)、山口春吉は、長男の山口登に跡目をゆずり引退しました。
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2009年09月06日

山口組 その2

二代目山口組組長を襲名した山口登は、新設された神戸中央卸売市場の運搬権を独占したほか、歓楽街、また相撲界から浪曲界・歌謡界へと興行面にも本格的に進出して、その勢力を更に拡大して行きました。

山口登は、1940年(昭和15年)、広沢虎造の興行権をめぐって、東京浅草田島町で斬られた重症を負い、これが原因で、1953年(昭和18年)に死亡しました。

戦後の1946年(昭和21年)、最後の肩書は、ヤクザ、実業家、芸能プロモーターと言われる、田岡一雄が山口組の三代目組長を襲名しています。

田岡一雄は、1981年(昭和56年)に病死するまでの35年間、山口組のカリスマ的な支配者として君臨し、全国各地に勢力を拡大し、現在の広域暴力団山口組を築きあげました。

敗戦後の日本の復興初動機である1949年前後には、競輪場、競馬場、パチンコなどの公営ギャンブルが公認となり、賭博を主な収入源としていたヤクザ社会も変革の時期を迎えます。
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山口組 その3

「これからの極道は、ばくちで生きていくべきではなく、『正業』を持たねばならない」というのが田岡一雄の持論だったそうです。

芸能プロダクション神戸芸能社では、美空ひばりや田端義夫等の興行を手がけていました。

美空ひばりと鶴田浩二のジョイント公演という実現されていれば芸能界の話題を一切さらい、伝説の公演になったいたことでしょうが、

この一大企画を提案して、鶴田浩二サイドには断られてしまいます。田岡一雄は芸能プロモーターとしても、眼の着けどころがダイナミックであったことを彷彿とさせます。

これを根に持って起こされたと言われる「 鶴田浩二襲撃事件 」では、田岡一雄が主犯として全国指名手配されるという一幕もあります。

麻薬追放国土浄化同盟を結成して、「 市川房枝 」氏等とともに麻薬撲滅運動を展開したこともあるです。

当時は、麻薬は彼らの収入源ではなかったのでしょうか?非常に理解に苦しむ一面であります。

田岡一雄の抜群の統率力と組織力、賭博に依存しない資金源を確立した先見性と、この豊富な資金力と強力な戦斗部隊が全国制覇の原動力となったといわれています。

ところが、田岡一雄の死後、四代目組長選出をめぐって、山口組内部において深刻な対立が生じましたが、

ようやくにして、三代目の妻である田岡文子の強い意向で、1984年、竹中正久が四代目山口組組長を襲名しました。
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山口組 その4

竹中正久の四代目山口組組長を襲名を潔(いさぎよ)しとしない者達(山広派)が多数、山口組を脱退して「一和会」を結成します。

山口組と一和会は長期にわたり対立抗争を繰り広げ、結局その過程で、竹中正久は、1985年に一和会 二代目山広組系組員に銃撃され、死亡しました。

山口組と一和会との対立抗争が収拾した1989年、四代目山口組の若頭の地位にあった渡辺芳則が五代目山口組組長に就任します。

1995年の阪神・淡路大震災では、救援に手間取る行政機関を尻目に、近隣住民への防災用品や緊急食料の配布を迅速に本部事務所で実施しました。

その模様は日本のマスコミは取り上げませんが、イタリアのマスメディアでは「マフィアが救援活動」と報じられています。

2004年、傘下組織組員が起こした不法行為に対する使用者責任を認定した最高裁判決を受け、長期静養を宣言して組の運営を執行部に委譲して、 2005年には、体調不良により引退しました。

2005年、六代目山口組組長には司 忍(つかさ しのぶ)が就任しています。その直後には、國粹会を傘下に収めるという形で、電撃的な山口組の東京進出がなされています。

2005年11月には、銃刀法違反裁判における上告が棄却され、司 忍の懲役6年の実刑判決が確定し、現在は服役中となっています。
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中田 カウス 山口組

中田 カウスといえば最近のHNK「 バラエティー生活笑百科 」で質問依頼人として、あのボソボソ声で漫才を演じていましたが、

最近は山口組との関係が週刊誌などで盛んに報じられているようです。

吉本興業特別顧問に就任しましたが、この山口組との噂で中田 カウス自身はその関係をしているものの、
ファンを騒がせたとして2007年に同職を退任しています。

日刊サイゾーの本多圭氏によると;

ことの発端は、カウスがマサさんの夫で、元吉本の社長だった故・林裕章さんに可愛がられたことだそうです。
実績もないカウスが、吉本の特別顧問に就任できたのは故・林さんのおかげ。つまりは、創業家の後ろ盾があったから。

ところが、林さんの死後、カウスは手のひらを返すように創業家に寄り付かなくなったようです。不安を感じたマサ未亡人が、カウスの後援者であった元暴力団で実業家のM氏に、現経営陣との話し合いを依頼したことから、お家騒動が勃発したとのこと。

週刊誌誌上で、マサ未亡人とカウスのバトルが展開された。そこでは、お互いに山口組との深い関係を暴露しあった。と続きます、

 その時点で、吉本は双方を切り捨てるべきだった。
吉本がその昔、山口組と共存共栄の関係だったことは否定できない事実。

時代が流れ、芸能が産業として社会的に認知され、上場までも果たした段階で、暴力団との黒い交際は断ち切るべきだったのだ。

 ところが、故・林社長は関係を断ち切れず、マサさんまでも元暴力団に創業家の代理人を依頼した。カウスもまた、マサさんが指摘したように山口組五代目の名前をチラつかせながら、芸人たちを威圧してきたのは紛れもない事実だ。

ということで、興行師団としての「山口組」は、日本の芸能界の屋台骨なのでしょうか?

それにしても、「 お互いに山口組との深い関係を暴露しあった。」とありますが、山口組の中で争う派閥が、それぞれの用心棒として雇われているのでしょうか?

事の真相は、やはり藪の中のようです。
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